昭和48年01月17日 朝の御理解
御理解 第14節
「神は荒れ地荒れ屋敷をお嫌いなさる。」
綺麗に耕して豊かな地にすれば、いろんなものが例えば、お野菜ならお野菜が、綺麗に出来る。そういう可能性のある土地を、荒らしておくという事は、矢張り天地の親神様は、お嫌いになるだろうと思います。是は荒れ屋敷と言うても同じ事。どうか手を入れて綺麗にすれば、人でも住める様なお家でも、又家が建てられるような屋敷であっても、それを荒らしておったんでは、矢張り天地の親神様の心に適わんと言うか、嫌われるとお嫌いなさる。神の機感に適わんと、そう言う様なものではない様ですね。
神の機感に適わんと言うのは、もう絶対のものですよね。例えば人を責めると言った様な心は、神の機感に適わん。人を憎むとかそういう心は神の機感に適わん。荒れ地荒れ屋敷を神様はお嫌いなさる。そこで私はここの所を、私共の心の中に荒れ地荒れ屋敷があるんだと。私共の心の中にです。どんなに有り難い教えを頂いても、頂いてもどういう素晴らしい種を蒔いて貰うても、蒔いて貰うても芽を切らない育たない。これは心が荒れ地だからです。人の言う事を聞かない。
人の言う事を容れない。自分の小さい殻の中に閉じこもってしまって、それはそうじゃろばってん、こっちにはこっちの理屈があると言ったような受け入れる心が無い。私はそれを荒れ屋敷という風に頂いたらどうだろうかと。神様に好かれる、私共にならせて頂かなきゃならん。その為には私共が人の言う事は良く聞かせて貰う。まぁ人の言う事と言うよりも、今日は御教えを頂くと言う事に致しましょうかね。
御教えを良く聞かせて貰う。心が荒れ地であったら、どんなに良いお話を頂いても頂いただけであって芽を出さない。花なら花を咲かせない。荒れ地荒れ屋敷それではね、所謂和賀心は育たない。ですから私は信心にはどうしても純粋さというもの、いわば素直と言う事が求められる訳です。素直に聞けれる素直にそうだなと合点がいく。それを又素直に実行に移す。どうも私どもの場合は不純な物が多すぎていけない。
今日私はある人の事を、お願いさせて貰いよりましたら、一升瓶に大きなジョウゴが、こうやってしてある。大きなジョウゴなんです。ジョウゴというのは、皆さんご承知ですね。お酒を計って入れますジョウゴ。口が大きいんです。けれども一升瓶の中に入っておる所がね小さい。もうストローのように小さいんです。是がねですからそれはストローのように小さくても、スムーズに行けばずうっと入る。一升瓶という事は、私共は一生と言う意味に頂いたです。
私共の信心と言うものは、一生かけての事なんですよ。是からこれ迄と言う様なものじゃないです。だから大きな口というのは、まぁ丁度つばめの子がもう体は小さいけども、口だけはこんなに大きいでしょう。そして親が餌を取って来ると、もう我先に口をこんなに大きな口を開けて、吾先に私にくれ私にくれとこう言うでしょう。そしたら親がこう入れてやりますよね。ですけれども口の方は大きいけれども、一升瓶の中に入っていく所が、小さいもんですから。
それでもまぁお酒ですから液体ですから、ずうっと少しずつでも入って行きゃ、それでいいんですけれどもね。それが詰まっておるという感じです。あんまり小さいから、どういう物が詰まっておるかと言うと、結局は不純なもので詰まっておる訳です不純なもの。けれどもこの辺の所を、先日の御理解頂きますと、わが心に不浄の心が起こった時には先に断りおいて、願いある事を頼めという御理解を頂きましたね。私共が例えば五つの願いなら五つの願いと言うものを、させて頂く時にです。
本当に体の丈夫をお願いをする。家庭円満をお願いをする。愈々子孫繁盛家繁盛の事をお願いさせて頂いて。その願わせて頂くのも真実のお役に立ちたい御用に立ちたい。天地の親神様の御悲願に応えたい。そういう一念がこの三つの願いになって来なければ、ならないという風に頂きますと中々難しい。三つの願いは中々スムーズに出来るんだけれども。後二つの所が真剣な物になって来ない。
それは私共がです。矢張り楽をしたい。言うならば、お金の方を見たり物の方を見たり、美味しい物を食べたいを思うたり、楽をしたいと言う様な心がです。ついついその三つの願いに、力が入って来るという訳なんです。それをかすかに自分で気がつく訳です。自分が一生懸命お願いしよるけれどもようく、煎じ詰めて見ると、少しでも楽になりたいと言う様な不純な物がある。
決して楽をしようと思うてではありません。真実の御用に立ちたいばかり、神様のご悲願に応えたいばっかりと、例えば申してみましても矢張りそこに、不純な物が少し入ってくる。それを気づかせて頂いて、その事を詫びて行くと言う事。その詫びて行くと言う事によって、その不純な物も、清純なものに言うならば、神様は受けて下さるのですから。その辺の所の真剣な、お詫びが出来なければならない。
昨日久留米の佐田さんが、お話しておられたのですけれども。私共は五つの願いの、やはり三つの願いの所に、力が入るけれども。二つの事に力が入らない事に悩みを持っておるのですけれども。子供達は純粋ですなぁと言う事です。子供達は本当に従順です。小さい時からお参りをして来る。一生懸命お話を頂く、そのお話をですねもう純粋に頂く訳です。家庭でそんなに話させて頂いとったら、中学三年生になられます典子さん。毎朝あぁやって参って来ますね一緒に。
お父さんあたし達はね、まぁ子供達が話しておる。健康の事やらねそれから家庭円満の事やら、それから子孫繁盛家繁盛の事やらを願う時に、心に引っかかるち言う。これを本当に願うと言う事に骨が折れると言う。例えて言うと。そしてお役に立ちたい、天地の親神様の御悲願に応えれるような、人間にならせて下さいという願いは、もう切実に出来るけれども。先の三つの本願いが、切実さを欠ぐという意味の話をしとりましたが。本当に、子供ちゃ純粋なものだとこういう訳。
そらそうでしょう。家庭は円満に行きよるし、お金に不自由するような事はまずないし。このままで行きゃ言うなら、お店の方も繁盛して行くに違いない様な、そういう恵まれた環境の中に、子供が親と一緒に信心の稽古をさせて頂いておる。もうご理解がそのまま、純粋に入って行く訳です。心が荒れておらん。心に荒れ地がない荒れ屋敷がない。ですから私共がですね。本当に純粋な心になると言う事です。
それこそ赤子のよう心になることです。そしたら後の二つの方が切実に願われて、その三つの方の願いが本当いうたら、みんなが切実に願われなければならんのです。よりおかげを頂く事の為に、よりお役に立たせて頂くためには、いうなら健康も繁盛も、家庭愈々円満であるという事も願わなければおられない。だからいかに信心には、素直さと言うものが、求められるかと言う事が分かります。
自分の心の中が、荒れ地であり荒れ屋敷である。人の言う事はそこに住まわれない。住まわす事が出来ない。自分の心の中に。自分の好きな人の事ははぁそうですか、そうですかと聞くけれども。虫の好かん人の事は全然受け付けようともしない。入らない。どこに言うならば、神様の声があるやら分からない。神様の願いがどこにあるやら分からない。又どういう素晴らしいお話を頂いても、只頂いておるだけで芽を切らない。それは心が荒れ地の状態だからだと。
自分の心が素直にはぁそんなもんですかなと、合点の行けれる信心。和賀心を願わせて貰う、その前提として私共はまず純粋な心を願う。素直にならせて頂く事を願わなければいけん。言うならば馬鹿ほどに素直な。私は昨日その佐田さんのお話を頂いて、本当に改めてですね、子供の様な心にならなければならないという事を感じました。大人とは反対に三つのの願いよりも、最後の二つの願いの方が切実に願えれるち言う。
お話を頂いて御教えを頂いてますから、本当に人間の生きがいと言うものを、神様に喜んで頂くような人間にならにゃならん。神様のお役に立つ様な人間にならして貰わにゃならんと言った様な事を、いつも聞いている。ですからこれをどうでも、願わんならんという事になったら、それが願う事は切実に願える事になった。けれども前の三つの、大人が真剣に願うところの、三つの願いという事にはです、それは勿論今も申しますように、恵まれておるからです。家庭は円満お金には不自由しない。
段々お店の方も繁盛して行きよる様子を、子供ながらもちゃんと見たり聞いたりして行きよる。ですからその事には、切実さがない事に、私たちは悩んでおるのに、大人は反対だねと言う。その親子でそんな話をしたと言う話をしておられます。そこでほんなら、私どもがです。本当に一つおかげを頂いて、信心が成長させて頂いてこの三つの願いも、せにゃおられないと言う所に行かなければ、信心が成長、大人になって行かない様に、私共が子供の心の所の後の二つの所が。
真剣に願えれる信心に成るためにはどうしても、私共が素直にならなければならない。昨日ある方が頂いた御理解に「開眼の世界は全て神秘である。全てが不可思議である。人生が暗いと思うたり、生き詰まっていると思うのは、心の眼を開かぬからである。」開眼という事ですね。本当の言うなら目を開くと言う事。夕べ共励会から帰って見えた方達に、丁度桜井先生と正義さんと、そこにおりましたから、二人にこの事を話した事でした。例えば本当に朝参りがしたいと思う。
そんなら切実にその事を、神様に願わにゃいけん。本気で願ってごらん。もう絶対神様が起こして下さるですから。それにはね。私共が矢張り開眼しなければいけない。私共が心の眼を開かなければいけない。金やら物やらの方へ向きをしておったその向きをです。回れ右させて頂いて、いわゆる信心の方へ言うなら、神様の方へわが心が神に向かうのを信心と言うのじゃと仰る。
自分の魂が一歩一歩清まって行くという事。神に向かって進んで行くという事が、信心なのだと、大改まりに改まらなければならない。信心と言うのは成程、病気治しや災難よけの神じゃない、心治しの神じゃと仰るが。信心とはわが心が神に向かうのを信心と言うのじゃと仰るが。そんなら私共が言うならば、お金だとか物だとかと言う様な方へ、向きを持って信心をいかに続けた所でです、それは真の信心とは言えない。
そこで段々信心が分からせて頂いておかげを頂いて。神様の働きを感じさせて頂くようになってお話を頂いて。言うなら心の中にお話がよく入って来る。そこで初めて信心とはわが心が神様へ向かって、進んでいく事が信心だ。魂が清まって行く事が信心なのだと、もうおかげ物と言ったものは、問題では無くなって来る。只自分の心が自分で拝みたいような心の状態を、楽しんで信心が出来るようになって来る。そして尚且つ信心を進めさせて頂いておったらお役に立ちたい、立たなければ生き甲斐がない。
私共の生き甲斐を神様に喜んで頂くようなお役に使うて頂きたい、神願成就の為に御用させて頂きたいと言った様な高度な心。所謂神の心が分かって来る様になる。親の心が分かって来る様になる。そこでその親の心に添わせて頂こうという所から、五つの願いがなされるから、素晴らしい事になって来る。その事以前のこの五つの願いであったら、それは程度の低い事だとこう思う。開眼の世界です。
信心とはわが心が言わば、魂が清まって行くという事が、神様へ一歩一歩近づいて行くという事は、自分の心が本当の神様へ向かって、姿勢が変えられる所からです。そういう事を大改まりに改まらせて頂いて、例えば朝参りなら朝参りのおかげが頂きたいと願ってご覧なさい。そこには神秘な世界があるだけであり。不可思議奇妙な働きを感ずる事が出来る。これは大変意味の広い事ですけれども。
例えて言うならば本気でお参りをさせて頂こう。本気で信心を頂かせて貰おうという気持ちにならせて頂いたら、神様がどうかして必ず起こして下さるです。それはもう不思議な事です。場合にはこう揺り動かしてから、必ず起こして下さる時があるです。場合にはそれこそ時間ぞとお声を以って、起こして下さる事がある。これは全ての点にですそういう、神秘と思われるような不可思議と思われるような、おかげの世界に住む事が出来るのです。向きを変えますと。我情我欲で目がくらんでおるとです。
神様のそうした働きも身に受け止める事が、出来なくなってしまうのです。神は荒れ地荒れ屋敷をお嫌いなさる。勿論そうでしょうけれども私共の心の中に、荒れ地荒れ屋敷がありはしないか。いくらお話を頂いても有難い芽が出られない花が咲かない。それはもうあなたの心は荒れ地なんだと、まず悟らなければならない。人の言う事を受け入れられない。聞く事は聞いてもそげな事ばとポンと撥ね返す。人を入れる事の出来ない心が小さい。是では荒れ屋敷と同じ入れられません。
そういう心に感ずる荒れ地荒れ屋敷を私共がです。所謂草も取ろう耕しもさせて貰おう。家であるならば、それが人が住める様な立派な家にもさせて頂こうと言う事が、改まると言う事であると同時にです。その事を一言で言うと純粋さ、本当に私共の素直さと言うものをです。愈々頂かせて貰わなければならないと言う事。御教えを純粋な心で頂くと、佐田典子さんじゃないですけれどもです。本当にお役に立ちたい、本当に天地の親神様に喜んで頂ける人間にお育て頂きたいと言う様な願いが、非常に強くスムーズに出来る様になる。私共が出来んのはその純粋さがないから。
私が今日ご心願に頂いたジョウゴの口は大きい。おかげを頂きたいという口は大きいけれども肝心要の中に入って行く所が小さい。それが詰まっておる何で詰まっておるかと言うと不純な物で詰まっておる。そんなら厳密に言えば私共も不純なものが、ありますけれども、そこは先に断わりおいてお詫びをさせて頂いて、これが一生心の中に有り難き勿体無き、畏れ多きの御酒が一杯入って来るような、おかげを頂く事を目指しての信心でなからなければならないと言う事ですね。
どうぞ。